「正倉院御物黒作蕨手刀」ペーパーナイフ(大和国)

以前「蕨手刀」を模したペーパーナイフを紹介しました(9/13)が、よく出来た「蕨手刀」レプリカが入手できましたので、お披露目致しましょう。陸奥国胆沢城跡に隣接する奥州市埋蔵文化財調査センター」の受付兼売店で購入できる蕨手刀を模したペーパーナイフは鋳物でしたが、今回紹介するのはパーツの組み合わせで成形された精巧なレプリカに該当する造りの物です。

 

「蕨手刀」の呼称は、柄頭の形状が早蕨(さわらび)のように先端が屈曲していて、刃と柄が共造り(ともづくり)で片手で握る寸法の鉄刀を示す造語で、1882(明治15)年に刊行された図録『撥雲余興』(ばつうんよきょう)第2集所載にある「南都東大寺黒装蕨手刀」が初見とされています。この呼称は松浦武四郎によって命名されたものだそうで、現在では考古学や刀剣学で用いられる学術用語として使用され、定着しています。
蕨手刀は既に江戸時代から好古家の知るところで、江戸・明治時代には古剣・古刀として図譜に寸法や形態的特徴が記されてきました。錆化によって失われたり、消息不明になって現存しない物に関する情報は図譜・図録という二次資料で伝わっており、これらも蕨手刀の研究材料とされています。

 

桐箱の蓋には
「官幣大社平安神宮
         記念奉納全國古武道各流型大會
 御  造  營                  」
の金文字が入っています。

戦前に制作された物の様です。

 

蕨手刀は北海道・東北地方で多く出土しており、特に東北地方北部での集中的な分布が確認されています。この分布状況ゆえに〝蕨手刀は蝦夷の刀〟とも呼ばれています。日本列島内では北は国後島、南は鹿児島県からも出土していますが、中国大陸や朝鮮半島からの発見は確認されていないことから、蕨手刀は日本列島固有の横刀(たち)と位置付けられています。

 

さて、箱の蓋を開けると、和紙に印刷された古き言葉遣いの説明書が折りたたまれています。

この同梱の説明書には

  正倉院御物
   黑作蕨手刀(三分ノ一摸作)

 蕨手刀は我が奈良朝時代或は其の以前の出土品中に種々あれども正倉院御物中に御保存あらせらるゝもの最も完全にして他の出土品は多く鞘の有機質の部分失はれその拵を完全に殘したるものなし
 この刀の柄頭が早蕨の如き形をなせるを以て蕨手刀の稱あり。柄頭やゝ頭椎(カブツチ)式と相似たれども蕨手頭は莖の先端がその儘延びて柄頭となりたるものにして且つ寸法は刀子よりは稍々大にして後世の脇差と相似たる所あり。
 其の製作は莖は刀身と同一にして頭部に大形の鵄目(シトドメ)あり即ち手貫緒の通し孔にて紫革の殘闕附着しあり、莖に樺を卷きたり、鐔は喰出鐔なり。
 鞘は足金物、責金物をも具へたる普通の様式にて鐵製なり、莖、鐔、鞘、足金物等總て黑漆塗なり。

                           髙田装束店調製
                                      」

とあります。
「髙田装束店」様の制作による、東大寺正倉院伝存「黒作蕨手刀」を3分の1に縮小したレプリカということです。

 

日本国内で確認されている〝蕨手刀で拵えがすべて揃う例〟は、正倉院中倉第8号黒作横刀(たち)だけだそうです。刀身と鞘がしっかりとしており、
 ・刀身に鍔が付いている。
 ・柄に樺が巻かれ、柄頭に鵛目と菊座に鹿革の懸け緒が揃っている。
 ・鞘は黒漆仕上げで、鞘口・鞘尻・足金物・責金具が装着されている。
という部位・部品によって蕨手刀の分類が為されています。

 

さてさて、説明書を箱から取り出すと、待ちに待った蕨手刀の全貌が明らかになりました。

探し求めていた物と巡り逢え、感激の念が込み上げてきます。
小さいですが、しっかりとした造形の蕨手刀が手元にあるのです。

 

蕨手刀は各地域特有の古墳・墳墓の副葬品として出土しており、出土状況は刀装具を伴う鞘に収めた状態が主ですが、刀身のみの場合もあるといいます。石室の隅に歴代の副葬品と共にまとめられて出土する場合、最終の被葬者の副葬品として出土する場合、呪術儀礼として鬼門方向に置かれたり立て掛けたりする場合が確認されています。

 

箱から取り出した姿です。

冷静になって観ると、細かい箇所は省略されてしまっていることに気付くのですが、そこは不問としましょう。鞘の金具は取り付けた物ではなく、型で彫りだした造型です。それでも形態は本歌(本物)に忠実に細工されています。

 

蕨手刀は〝共鉄造り〟(ともづくり)という柄木を省略した作刀過程の簡略化と、実用性高さによって浸透していきました。

発掘による遺跡・遺構、出土状況や共伴遺物に関する考察の結果、蕨手刀は7世紀後半~9世紀にかけて使用されていたと考えられています。ちょうど奈良時代を中心とする東国・東北経営及び蝦夷征討が行われていたあたりに盛行していたそうです。

 

鞘からちょっとだけ抜いてみました。小さいながら、本格的な造りです。

 

蕨手刀の分布は、
 ・北海道…定量の出土例が確認されています。
 ・陸奥国…最多で、この偏在性が蕨手刀は〝蝦夷の刀〟とされてきた理由です。
 ・東日本…関東甲信および静岡以東に偏在しているといいます。
 ・西日本…散見される程度の出土例といいます。

蕨手刀の形式は「古式」と「新式」に大別されるそうです。
刃の長さは、おおよそ刃長40㎝程とされています。

 ・古式…柄の反りと絞りが弱く、刃が短い。
     これは東国に多く見られる特徴だそうです。
     佩用で鞘に装着される足金物は、信濃国・上野国では単環単脚式だといいます。

「古式」蕨手刀の場合、主に横穴式石室から副葬品として出土しており、被葬者は地域開拓の新興的氏族の長と考えられています。

腰帯(ようたい)は時代が降るにに従って大きくなり、革帯幅が広くなっていきます。
巡方や丸鞆といった付属品の大きさの差ではなく、色と品質の差によって可視化され、五位以上・六位以下なのかの差が明確にされたそうです。
こうしたことから、腰帯と共に蕨手刀を副葬された被葬者は8世紀代の、いずれも
 ・六位以下の官人層
 ・位階を授けられた蝦夷の長
であろうと推定されています。

 ・新式…柄の反りと絞りが強く、刃が長い。
     これは東北地方以北に多く見られる特徴だそうです。
     佩用の足金物は、陸奥国北部・出羽国では台状双脚式だといいます。

足金物については、中間の陸奥国南部では新古両形式が顕著に混在しているのだそうです。

「新式」蕨手刀の場合、陸奥国北部に密度が濃く分布しているそうです。
これは、征夷事業が進展したことにより、信濃国・上野国から陸奥国・出羽国への移民「柵戸」(さくこ/さのへ/きのへ)のなかに蕨手刀を鍛造することができる刀工集団が含まれていて、蕨手刀製作技術も共に移動・普及したと考えられています。

 

戦前の品ということで少々草臥れていますが、光の当て方で充分輝いています。

 

諏訪から小県を結ぶ古東山道を通る東信と西毛(長野~群馬)の両地域における分布密度が最も濃いということから、山を隔てた東信・西毛地域一帯が蕨手刀の発祥地と推定されています。

 

蕨手刀の本体だけの画像です。

 

古い蕨手刀は柄の下辺(しもべ)は直線的でしたが、柄を片手で握ったために握りやすいように弧を描く形状と変わっていったといいます。

柄の下辺(しもべ)と柄頭との付け根の部分が
 ・浅い円弧を描く場合、柄頭が斜め下に付いています。
 ・深い円弧を描く場合、柄頭が下方向についています。
柄付け根部分の円弧の深浅と屈曲する形は柄の絞りと連鎖するので、柄の絞りが強まることで円弧も深くなり更に屈曲していきます。柄反りが強ければ斜め上方に引き上げられ、付け根部分の円弧は浅くなる傾向にあります。

柄頭は基本的に蕨手状の先端が
 ・巴形または勾玉形の丸い形
 ・半円状の突き出して刃方の上縁を直線または半円に切り込むいわゆる鳥頭形
がそれぞれの形状で大小の範疇に分けられています。
機能的には片手で柄を握るために蕨手状の先端が小指に掛かるようになっており、これが手ずれ防止と役割を果たしています。

 

カッコ良く見えるように撮影し、最も見栄えした画像が此方です。

 

刀身について。
刃反りが無いものを直刀(ちょくとう)とし、刃反りがあるものを彎刀(わんとう)と区別しており、刃反りの有無により、直刃から彎刃へと変遷していったと考えられています。
また、
 刃長30㎝未満の「刀子」
 刃長30~40㎝の「短寸」
 刃長40~50㎝の「中寸」
 刃長50㎝以上の「長寸」
と寸法の異なる蕨手刀が同時に存在していたことは、その用途の違いが明確であったことを物語っています。
鋒(きっさき)は、
 ・カマス鋒
 ・フクラ鋒
 ・芽の葉(長三角形)鋒
 ・鋒両刃
に分類できます。鋒の形状は地域差もしくは刀工集団の技術差を見られ、それ以外の特徴としては、
 ・カマス鋒→フクラ鋒への時間的変遷をたどることができる
 ・芽の葉・鋒両刃は信濃・上野国で多く分布する傾向が確認されている
 ・刃の長寸化と彎化は、武器として用いられたことを示している
という点が指摘されています。

 

鞘の鯉口は、この様な感じになっています。

小型のペーパーナイフですが、鞘の方も平鞘の形状で丁寧に造られています。

 

蕨手刀を金属考古学の観点から鋼の原料分析を行うと、
 ・関東地方出土の古式:鉱石系
 ・東北地方出土の新式:砂鉄系
ということが判明し、東北地方南部での鉄生産の盛行・供給とともに、多くが鍛造されたと推測されています。

また、東北地方では対蝦夷政策の一環として『養老令』関市令弓箭条にあるような〝鉄生産が規制〟されていたといいます。しかしながら鉄冶禁止が適用されていた東北地方では、製鉄による玉鋼の供給が無くても、成分分析の結果から「卸し金(おろしがね)法」という鋼をリサイクルする技法があったため、作刀は可能であったことが判っています。

いろいろな観点から蕨手刀について観てきました。
共鉄柄(ともづか)の蕨手刀が普及した理由は、刀身を鍛造後は樺や糸などの柄巻を施すだけで使用できる利便性、蝦夷族長層の饗給(きょうゆう:物資賜与で懐柔)や交流による蕨手刀の蝦夷への伝播、山刀としての機能が弓矢と組み合わさって狩猟採集生活にも適応できたこと、蕨手刀そのものの物流に加えて鍛造技術も柵戸(さくこ/さのへ/きのへ)から朝廷に帰降した蝦夷へと伝播したことなどが複合したことにあります。
さらに加えて、774(宝亀5)~811(弘仁2)年のいわゆる朝廷と蝦夷の「三十八年戦争」において蕨手刀の武器としての役割が高まり、戦場における鍔迫り合いの白兵戦や馬を駆使した騎馬個人戦・疾駆斬撃戦に適合するために拳を保護する目的で喰出鍔(はみだしつば)から板鍔(いたつば)への移行や、反りを伴う長寸化という進化を遂げました。
38年間にわたる朝廷・蝦夷間の対立と緊張状態の継続、そして重ねられた交戦事実によって、朝廷=律令国家が派遣した征討軍と、これを権益維持のために迎撃した各蝦夷集団の双方に用いられた武器として蕨手刀は発展・普及していったのです。

 

 

当サイト内のすべてのコンテンツについて、その全部または一部を許可なく複製・転載・商業利用することを禁じます。

All contents copyright (C)2020-2021 KAWAGOE Imperial Palace Entertainment Institute / allrights reserved