龍安寺「石庭文鎮」〈全景〉

旅で訪れているのにとても心穏やかに、そして長い時間でも過ごしていられる・・・その様な場所のひとつとして京都の「龍安寺」をあげることができます。

 

出入口から庭園を愛でることができる方丈に行く迄の間に売店が設置されており、様々なグッズが販売されています。
坂東(関東)からの遠征で寺社のハシゴする場合、一箇所でグッズに投入する金額は限られています。「また来る時にアレを買おう」と自らに言い聞かせ、連れて帰ってきたのが此方です(年末の上洛ではなく、以前の訪問時での事です)。

品名は「石庭文鎮〈全景〉」です。同じ商品名「石庭文鎮」で一部分に焦点をあてた物もありましたが、まず順番として〝全景〟を連れて帰りました。

 

龍安寺は1450(宝徳2)年、室町幕府・管領の細川勝元が右大臣・藤原公有(徳大寺公有)から徳大寺家の山荘を譲り受け、義天玄承を開山として創建しました。
伽藍は応仁の大乱勃発の翌年1468(応仁2)年に焼失してしまいましたが、細川政元が1488(長享2)年に再建着手、1499(明応8)年に方丈の棟上式を迎えました。石庭もこの頃に築かれたと考えられています。
1797(寛政9)年に食堂からの出火により方丈・開山堂・仏殿を焼失、現方丈は塔頭であった西源院本堂(1606年建立)を移築したものだそうです。

 

さて、

方丈の外縁から見える石庭の全体像に似せて、よくできています。

 

手のひらサイズですので、

 

 

 

 

・・・と、いろいろな角度から石庭の雰囲気を楽しむことができます。

 

作庭がなされたのは室町時代と推定されています。
しかしながら作庭者については諸説があり、現在でも断定するに至っていません。

現在、注目されているのが、庭石の後ろ側に刻まれた「小太郎・□二郎」という刻印です。

石庭文鎮を立てて、便宜上の番号を付けました。

「7」石の後ろ側に「小太郎」「□二郎」の刻印がなされているそうです。
刻印「□二郎」の一文字目は判読し辛くなっている様ですが、「清」もしくは「彦」ではないかと推測されています。

ただ、龍安寺の3度被災によって創建時の設計資料・再建資料が焼失してしまったため、他に記録が無いということもあり、この刻印だけで彼らを作庭者と判断することは憶測の域を出ないといわれています。それでも作庭に関わった山水河原者ではないかという推測は可能でしょう。

 

宮元健次氏は『龍安寺石庭を推理する』(集英社新書0104F 2001年)の中で、龍安寺石庭にも西洋のパースペクティヴ(遠近法)が用いられていることをご指摘されています。
龍安寺石庭は、それまでの日本における庭園の基本的態度であった自然を模していく「自然風形式庭園」と対極に位置する「整形式庭園」であったとし、油土塀の傾斜や石の配置などの具体例を論を展開されています。

 

龍安寺石庭は、白砂を敷いたわずか75坪という空間の中に大小15個の石が配されています。この配石については臨済禅の公案の様に種々興味深い説が唱えられていますが、作庭者の意図は残念ながら不明のままです。

いろいろと関連書籍にあたってみましたが、とても深い問題であったため、ここでは言及することを止めておきます。諸説が多過ぎでした・・・。

 

1975(昭和50)年5月10日、イギリスのエリザベス二世と夫君エジンバラ公が龍安寺石庭を訪問されました。故・松倉紹英住職が菊紋章入りの椅子に腰掛けたお二方に
 「この庭は宗教的・哲学的な庭で、鑑賞するものではありません」
 「ごゆっくり、瞑想してください」
と促したところ、エリザベス二世は笑顔を消され、約10分の間、無言で石庭を見つめられたそうです。そして
 「私にはわからない」
と言われたそうです。

このことが〝女王、石庭を絶賛〟という形で世界に報道され、龍安寺石庭は日本文化の「侘び」「寂び」を代表する存在として世界的に認知されるに至ったのです。

 

また龍安寺を訪れたら、別のグッズを購入して紹介しますね。

 

 

 

 

 

 

 

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